大学人としてのわが恩師島崎晴哉先生

  中央大学経済学部教授(学部長) 松丸和夫

  2007年6月26日(火)、大学の会議室で翌日の教授会打ち合わせをしているときに、学部長秘書から恩師島崎先生の訃報を報されました。小さな紙片には死亡時刻と遺族の連絡先が記されていました。あまりのショックに、暫し絶句。いつかは来るときと予感はしていたが、あまりにも急で、心の準備も何もありませんでした。なんで突然、そんな気持ちをひきづりながら、通夜、告別式とあわただしく時が過ぎていきました。告別式での学部長弔辞を何度も書き直しました。

 あのときから早や1年が過ぎ、これまで何度も先生のことを思い出しています。弔辞でも述べたように、先生は研究者・教育者として私の理想であったばかりでなく、大学人としても立派な方でした。先生が、私が中央大学経済学部に入学した1973年の「履修要項」の学部長挨拶で、「自律性のないところで学問への情熱は枯渇し、自律性のないところで大学の生命は死ぬ」と書かれていた言葉、今でも私の学問論と大学論の出発点であり、ゴールとして生き続けています。

    時代や社会環境の変化への対応が、大学に求められていることはいうまでもありません。改革の膨大なエネルギーは、そのために注がれているといっても言いすぎではありません。しかし、大学が学問研究と教育の場であることをわすれて、大学経営がひたすら学生の獲得と偏差値の引き上げに向かったとしたら、どうなるでしょう。どんなに世間の評判がよい大学になっても、恩師のおっしゃった「自律性」が欠如したら、それは大学とはいえないでしょう。

    1968年から1969年の大学紛争が投げかけた「大学自治」の問題は、学園が平穏になったそれ以後も解決していないばかりか、むしろ近年では「自治」の後退や内部的崩壊の危険にすらさらされていると実感しています。閉ざされた世界、世間で通用しないルールが大学にはあります。経済的効率性だけでははかれない「無駄」もありましょう。あるいは、手続き民主主義のために、意志決定に膨大な労力と時間が費消されているという批判もあります。しかし、大学自治を単なる意志決定のプロセス、手続きの問題に矮小化しないためには、大学人、大学構成員が「自律」(オートノミー)を担保しながら、結果に対する責任も、説明責任も果たしていくことが不可欠だと思います。統治の主体として学生や教職員が輝く大学こそ本来の意味での大学だと思います。

   めまぐるしい社会環境の変化の中で、そして変遷止まない国の大学政策におされて、大学が目指すべき方向性を十分示し得ないまま、時間に流されるとしたら、それは恩師のいわれた「自律性のないところで大学の生命は死ぬ」という警句が現実になりかねません。研究者としての教員が自分の専門領域の殻にいよいよ閉じこもり、大学や社会の未来を広い視野から考察しないとき、どうして学生に対してだけ「幅広い教養と深い専門知識」を期待することができるのでしょうか。大学自治の危機は、明らかに進行しています。私の大学論の原点はかわりません。師のもとめしところをもとむです。島崎先生、ほほえみながらどうかこれからも私たちをお導き下さい。お叱り下さい。(2008年4月20日執筆)

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