‘追悼文’ カテゴリーのアーカイブ

大学人としてのわが恩師島崎晴哉先生

2010年6月30日 水曜日

  中央大学経済学部教授(学部長) 松丸和夫

  2007年6月26日(火)、大学の会議室で翌日の教授会打ち合わせをしているときに、学部長秘書から恩師島崎先生の訃報を報されました。小さな紙片には死亡時刻と遺族の連絡先が記されていました。あまりのショックに、暫し絶句。いつかは来るときと予感はしていたが、あまりにも急で、心の準備も何もありませんでした。なんで突然、そんな気持ちをひきづりながら、通夜、告別式とあわただしく時が過ぎていきました。告別式での学部長弔辞を何度も書き直しました。

 あのときから早や1年が過ぎ、これまで何度も先生のことを思い出しています。弔辞でも述べたように、先生は研究者・教育者として私の理想であったばかりでなく、大学人としても立派な方でした。先生が、私が中央大学経済学部に入学した1973年の「履修要項」の学部長挨拶で、「自律性のないところで学問への情熱は枯渇し、自律性のないところで大学の生命は死ぬ」と書かれていた言葉、今でも私の学問論と大学論の出発点であり、ゴールとして生き続けています。

    時代や社会環境の変化への対応が、大学に求められていることはいうまでもありません。改革の膨大なエネルギーは、そのために注がれているといっても言いすぎではありません。しかし、大学が学問研究と教育の場であることをわすれて、大学経営がひたすら学生の獲得と偏差値の引き上げに向かったとしたら、どうなるでしょう。どんなに世間の評判がよい大学になっても、恩師のおっしゃった「自律性」が欠如したら、それは大学とはいえないでしょう。

    1968年から1969年の大学紛争が投げかけた「大学自治」の問題は、学園が平穏になったそれ以後も解決していないばかりか、むしろ近年では「自治」の後退や内部的崩壊の危険にすらさらされていると実感しています。閉ざされた世界、世間で通用しないルールが大学にはあります。経済的効率性だけでははかれない「無駄」もありましょう。あるいは、手続き民主主義のために、意志決定に膨大な労力と時間が費消されているという批判もあります。しかし、大学自治を単なる意志決定のプロセス、手続きの問題に矮小化しないためには、大学人、大学構成員が「自律」(オートノミー)を担保しながら、結果に対する責任も、説明責任も果たしていくことが不可欠だと思います。統治の主体として学生や教職員が輝く大学こそ本来の意味での大学だと思います。

   めまぐるしい社会環境の変化の中で、そして変遷止まない国の大学政策におされて、大学が目指すべき方向性を十分示し得ないまま、時間に流されるとしたら、それは恩師のいわれた「自律性のないところで大学の生命は死ぬ」という警句が現実になりかねません。研究者としての教員が自分の専門領域の殻にいよいよ閉じこもり、大学や社会の未来を広い視野から考察しないとき、どうして学生に対してだけ「幅広い教養と深い専門知識」を期待することができるのでしょうか。大学自治の危機は、明らかに進行しています。私の大学論の原点はかわりません。師のもとめしところをもとむです。島崎先生、ほほえみながらどうかこれからも私たちをお導き下さい。お叱り下さい。(2008年4月20日執筆)

江口英一先生と「未組織の組織化」

2010年6月30日 水曜日

松丸和夫(中央大学教授)

  私が学生だったころから現在までの30年あまり、江口英一先生からたくさんのことを学び、実行し、そして数え切れない思い出をいただいた。江口先生は、授業や研究会を通じてはもちろん、研究会の打ち合わせや時折の余暇や旅行等の際にも、人間的な生き方を慈しみ、そして研究者としての姿勢を教えて下さった。私は文字通り「雑巾がけから論文まで」ご指導いただいた。こうした事柄について、江口先生を偲びながら徒然と書きたい衝動もあるが、しかし、建交労の理論誌にふさわしい内容で江口英一先生を偲ぶとなると、それらの個人的なことがらはこの際省略する。

  私が中央大学の助手として1981年から84年にかけて江口先生のご指導の下に最初に書いた論文のテーマは、「現代日本の未組織労働者問題」であった。「未組織」とは、「いずれ組織化されるべき労働者」のことだと江口先生は教えて下さった。しかし、未組織労働者の問題を解決するための手段は組織化だけではない、ともご指導をいただいた。労働者状態の現実も、労働運動の実態も決定的に認識を不足させていた当時の私にとって、この言葉は多義的な理論的可能性を私に提起していた。そして、「未組織」問題の解決は、それほど容易なことではないと考えるようになった。 

   日本の憲法には、労働者の団結権が明記されており、労働基準法、労働組合法においても労働者の自主的な結社である労働組合が、法による労働条件の最低限を超えて、より人間らしい生活を実現するために労働運動を展開することが予定されていた。したがって、私は「未組織」とは、本来あってはならない状態であり、未組織労働者を「啓蒙」し、労働組合運動のあり方を改善すればいずれ解決する問題のように考えていた。まさに、「黄色いくちばし」でそれを語っていた。

   そこで私が最初に構想した研究の順番は、今日の日本の労働組合組織の構造的問題の解明であった。すなわち、正規従業員身分をもつ特定企業・特定事業所の労働者から成り立つ「企業別組合」の制約について論を進めることであった。このような接近方法は、第2次大戦後のある時期までの労働問題研究においては、珍しいものではなかった。江口先生も所属されていた東京大学社会科学研究所の最初の労働組合調査は、まさに戦後急速に組織化された日本の労働組合を企業別組合として特徴付け、その運営における民主主義の欠如、日本社会の民主化の主体となり得るか否かについて、やや否定的な評価を下していたのである。労働組合の体質が変われば、労働者の組織化は進む、と楽観的に考えていた私に、「組織論」の一人歩きに対する痛烈な「最初の一撃」を与えて下さったのがまさに江口先生であった。

   「組織化というけれど、中小零細企業や不安定雇用の労働者を組織化するのは、そんなに簡単ではないよ。」、このような主旨のことを先生は私におっしゃった。1980年当時の労働省による失業対策事業の「終息」政策と正面からたたかっていた「全日自労」といつも一緒におられた江口先生は、この困難な組織化事業の難しさを研究者として誰よりもつぶさに感じ、そして苦悩されていたのだと思うと、赤面するばかりである。81年4月、1枚の航空チケットをもらって私は全日自労・田川へ飛んだ。1971年の中高法による失対事業からの「自立者」の追跡調査のためである。10年たっても元組合員の家を訪ね、健康や生活状態を調査できる全日自労のすばらしさに触れ、感動した。学生気質の抜けない私にとっては、既成観念、概念崩しの連続であった。しかし、現実は、私を導いてくれた。

   当初の論文の構想は大きく変わり、労働組合組織論はそれだけを現実の労働者状態と切り離して取り上げてもあまり生産的でないと考えるようになった。「未組織」状態がもつ意味について深く考察した上で、「未組織労働者」の大部分を構成する「失業者」「不安定就業階層」「貧困層」の問題を解決するために必要な方策の一つとして、「組織化」の可能性を考えるようになった。

   後々まで江口先生からは、全日自労との交流から得られた生きた言葉を教えてもらった。全日自労飯田橋分会で調査をやっていた頃、ある大学の先生がやってきて、組合員数は何人ですか、と質問。分会役員が答えて曰く、此処にいる人全部です、と。あるいは、全日自労の分会組織は、「仕事をよこせ」運動で公共職安前に集まった人々を丸ごと組織化することで成立したものもあると聞いた。そのときも、組合員数は、「此処に集まったひと全員だ」と指導者が答えたという。組織化=組合費をきちんと納めている人、という考え方にはもちろん近代的組織としての資格要件として根拠があることは否定しないが、運動体として労働組合を考えるとき、「いざとなったらこんなに力を発揮する」全日自労の組織力のすごさが評価されてしかるべきとも思う。これらのとらえ方から、私は、当時低下を巡って議論されていた労働組合の「推定組織率」のパーセント値は、労働組合の組織力を表すひとつの指標としては有効だが、そのすべてではないことを知った。仮に組織率が100%であっても、団体交渉もしない、ストライキも打てない労働組合よりは、組織率が20%でも大衆運動として5割の労働者を動員できる組合の方が社会的存在感を発揮しているのではないだろうか。

   さて、江口先生とご一緒した最後の調査・研究会は、「建設一般50年史」の編纂委員会であった。毎回、当時の建設一般=全日自労の酒井委員長と栗山書記長にご同席いただき、貴重なヒアリングをすることができた。まさにオーラルヒストリーのワークショップであった。研究者メンバーは、労働組合の機関紙誌等で与えられた時期区分と運動分野の大まかな流れを整理し、あとはヒアリングで肉付け作業である。この研究会でも江口先生はいつもその先頭に立っておられた。先生は、ヒアリングする側の代表であると同時に、後進の研究者にとっては全日自労運動のヒアリング対象でもあった。とりわけ、労働組合運動と研究者の緊密な協力関係の一つの理想的な形を私は江口先生と全日自労の間にみてきた。いつも若手からベテランまで大学の枠を超えて研究者が江口先生の周りには集まっていた。「未組織の組織化」を研究者分野で実践されていたのが江口先生ご自身であり、全日自労の「世話やき活動」に通じるものであった。

   くちばしの黄色かった当時(今も)の私に、江口先生はいつも笑顔で対応して下さった。「そんなに堅く考えることはないよ」といさめて下さったことも度々だった。深いところをいつも考えておられた江口先生は、その「対話法」によって、若い研究者を少しずつ導いて下さった。高圧的に批判されることは一度もなかった。感謝するばかりである。

   今日、貧困と格差に対するたたかいは、新たな高揚を見せ始めている。戦争と貧困と失業に反対する日本労働運動の伝統の担い手として、建交労は大きな期待を背負っている。いつも現実から出発し、そして現実に帰って行かれた江口英一先生、私のような不肖の弟子でも、先生が生涯のロマンとして求められた壮大な社会運動と貧困のない社会を目指してがんばることをお誓いします。長い間本当にありがとうございました。(2009年3月23日執筆)

たたかう研究者− 工藤恒夫先生を偲んで

2010年6月30日 水曜日

 中央大学経済学部長 松丸和夫

 

  健康で健啖家であられた工藤恒夫先生は、研究・教育・大学運営・スポーツ・囲碁といつも周りの人々をリードして旺盛で活発な人生を全うされました。同じ社会政策分野の後輩としては、その一部でも追いつこうとしても、先生の迫力に圧倒され続けました。テニスも囲碁も、せっかく手ほどきをいただきましたが、ものになりませんでした。

  研究の面では多くのことをご指導いただきました。特に、1970年代後半からの国の社会保障政策の大転換に対して、工藤先生は常にそれがいかに社会保障の本質から逸脱するものであるか、国の政策を遠慮無く批判して、本来の社会保障のあるべき姿を取り戻すべく「たたかう研究者」でした。

  ヴァイタリティにあふれ、常に行動的だった工藤先生。内臓疾患に煩わされ、大きな手術の後、虎ノ門病院に私がお見舞いに伺ったとき、笑顔で応対して下さり、「実はもう一つ手術を受けなくてはならないんだよ」と話して下さいました。その手術後、ずいぶんと体力を低下され、学部と大学院の授業は少人数のゼミナールを中心に講義されたことを憶えています。「たとえ教壇で倒れても、教えるべきことを語り続ける」とは受講生からしばしば聞いた工藤先生の授業風景でした。さぞかし、お辛かったことでしょう。弱音を吐かない工藤先生、本当にお疲れ様でした。

 工藤先生は、1985年から1989年まで経済学部長の激職の任にあられました。円高不況からバブル経済へと日本経済の構造が大きく転換した時代、工藤学部長は次々と改革案、新企画を打ち出されました。まず、一番印象に残っているのが、経済学部の新入生を一堂に集めて、オリエンテーション合宿(バス24台での1泊研修)を実現したことです。教授会員のなかには、強い反対意見もありましたが、学部長のリーダーシップで果敢に実行されました。この行事は、その後諸般の事情から形式を変え、今日では実施されなくなりました。

  第二に、現在の指定校推薦による学生の受け入れに積極的に取り組まれました。当時の経済学部は、まだまだ女子学生の比率が低く、それを引き上げるために全国の女子校を指定校にする取り組みを強化されました。いまでは3割近い学生が女子学生で占められる経済学部になりました。社会の変化を先取りした取り組みだったと思います。今では、高等学校の男女共学化がすすみ、女子校の新規指定は珍しくなりました。

  第三に、本年全員加入制創立20周年を迎えた父母連絡会の立ち上げに際して、工藤先生に大変ご尽力いただきました。中大規模の大学で父母連絡会という組織を立ち上げるというのもまれな事例でした。「大学にまでなってPTAですか」とシニカルな反応もあるなかで、いつも未来を見据えられた工藤先生は、「人には言うに任せよ」式に、断固として父母連絡会の全国組織化を提起され、今日では中央大学の重要な財産として定着しています。

  ほかにも工藤先生のご業績は数えきれませんが、最後に、工藤先生のお人柄について、私の印象を述べさせていただきます。くよくよして優柔不断の私と違って、工藤先生は、熟慮されて決断した後は、迷うことなく実践するタイプの方でした。そして何より粘り強く、途中であきらめることがありませんでした。秋田県ご出身の工藤先生は、ご幼少の頃からこの粘り強さを身につけられたと伺っています。研究と教育の面においても、工藤先生はご自分の研究成果と理論に忠実であり、おかしいと思える論説に対しては、断固として批判を展開されました。今日のように、日本の経済・社会が構造的危機に陥っているとき、原理原則をはっきりとさせた骨太の理論が必要であるときに、工藤先生のような理論的支柱を失ったことは、残念でなりません。さいわい工藤先生は、多くの研究教育の後継者を育て上げられました。「工藤理論」は、今後も研究対象や方法における発展を遂げながら、その本質的部分は継承されていくものと信じます。工藤先生の後輩として経済学部につとめた30年近くの様々な思い出を、私の人生の一部としてこれからも大切にしたいと思います。工藤先生、いろいろとありがとうございました。(2009年3月21日執筆)